『GODZILLA 決戦機動増殖都市』感想・雑感 ネタバレ含

 『GODZILLA 決戦機動増殖都市』および前作『GODZILLA 怪獣惑星』のネタバレ要素あり

 

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『GODZILLA 決戦機動増殖都市』特報

 

■概要

21世紀初頭、人類はゴジラに蹂躙された地球に多くの人命を残し、選ばれし者達だけで恒星間移民船・アラトラム号に乗って移住可能な「約束の地=タウ星e」を目指した。しかし計画は失敗し、人類は再び地球へと舞い戻ることになってしまう。そして、長距離亜空間航行によって生じた時空の歪みは、人類が戻るべき場所を「二万年後の地球」に変えてしまっていた。その地球で主人公・ハルオたちはゴジラの攻撃を受けながら、20年間考え続けた「対ゴジラ戦術」をエクシフとビルサルド、2種族の異星人と共に実行し、決死の戦闘でゴジラを倒すことに成功する。

しかし、喜びも束の間、地中深くから真のゴジラゴジラ・アース>が姿を現す。二万年もの間成長を続け生き永らえ、体高300メートル、質量10万トンを超える姿へと進化した超巨大ゴジラの圧倒的な破壊力を前に、ハルオたちは散り散りになってしまう。

そしてハルオを救ったのは、人類の生き残りと目される「フツア」の民、ミアナだった。フツアはこの地球で初めて出会った人型の生命種族である。彼らは人類の子孫なのか―――。「フツアの神もゴジラに破れ、今は卵を残すのみ。挑むもの、抗うもの、すべて炎に呑まれて消える」という彼らにハルオは、「これは、人類の手に地球を取り戻す、最後のチャンスなんだ」と語り返す。

 

一方、ビルサルドの指揮官・ガルグは、フツアの持つ矢じりが“自律思考金属体=ナノメタル”でできている事に気がつき歓喜する。それは、21世紀に彼らが富士山麓で「対ゴジラ決戦兵器」として開発するも、起動寸前で破壊された<メカゴジラ>を構成するものと同じ物質であり、その開発プラントが今もなお、残っている証だった―――。

 

 

■アニメゴジラの意義

GODZILLA ゴジラ』(2014、通称ギャレゴジ)と『シン・ゴジラ』(2016)がおそらく多くの人にとって未だ記憶に新しいなかで、ゴジラ・ブランドをアニメにする意味・意義とは何だったのだろうか。つまり、実写表現ではなくアニメ表現でしか出来ないゴジラ映画はあるのだろうか。

  ひとつは2万年の経過というスケールのサイエンスフィクションだろうか。2万年を経た「ゴジラに適応した地球」(正確にはゴジラが進化の歴史さえ覆し、たった2万年で大きく変化した地球というべきか)を始めとするSF的要素が密度を増すほどアニメとの親和性は高くなる。だから、ゴジラを扱ってSFアニメを作ろうという戦略のもとにアニゴジ三部作があるのだと推測する。実際、脚本や構成のところでスタッフロールに名を連ねるのは特にSFで実績を残してきた人たちだ。やはりそれこそが、現在アニメというジャンルで表現可能な面白さということなんだろう。ここまでは、前作からの継続性といえる。

 

■アニメにおけて「ゴジラ」を再構築、「ゴジラ」という現象

   全三部シリーズの二部にあたる今作では、"自立思考金属体"ナノメタルの発見によってゴジラ・アースの前に絶望し尽くしたハルオ一行が再び地球奪還を目指す。凍結されたと思った預金口座がいつの間にか復活していてしかも2万年分の利息がついていたみたいな唐突さだったが、とにかくナノメタル、すなわちメカゴジラとの際会が彼らの運命を決定的に変えていった。

   ゴジラ討伐に向け、すくなくとも前作の段階では種族の枠組みを越え、人類の叡智を結集させていたにみえたハルオ一行だったが、メカゴジラはそこにあった埋め難い決定的なギャップを顕在化させた。

 ビルサルトのガルグ曰く「我々ヒト型種族こそが、ゴジラと呼ばれるに至らなくてはならん。」。人智を超えたゴジラを倒すには人であることを逸脱しなければ不可能だと主張し、肉体と魂を捨て、ナノメタルに吸収・一体化することさえ合理的であるとした。一方エクシフのメトフィエスはそれを成し遂げたとしてナノメタルという新たなゴジラを君臨させることにほかならないと説く。

 そうしたゴジラ討伐への認識・フィロソフィーのギャップ、そこから生まれた葛藤や苦悩は大きな見所だった。ハルオは結局それを人類の敗北であり、ゴジラ支配の継続だとしてメカゴジラによるゴジラ討伐を断念、再びゴジラ・アースの前に大敗北を喫する。

 こうした一連の作劇から「ゴジラ」に怪獣一個体の名称を逸脱した、「ゴジラ」によって引き起こされるあらゆる現象を幅広く包括した意味合いを持たせる意図を感じた。それは、たとえば人類の敗北であったり、ゴジラ化した地球であったり、メカゴジラ・シティというスケールの新たなゴジラの発生であったりする。つまり、アニメゴジラにおける「ゴジラ」の意味するところは「ゴジラ」という名の現象なのではなかろうか。そしてこの「ゴジラ」再構築こそが、アニメゴジラ三部作そのものの意義のひとつではないか

 

 

 

・ひとりごと

ビルサルトが脱落し、これまでの叡智の結集の道は絶たれた。三作目への期待としては、フツアに残された神の卵や、メトフィエス(そもそも彼自体だいぶ胡散臭い)の言う「絶対的な破壊の力」(名前は言ってはいけない)、そもそも残り一作で収まるのか、どう収めるんだとかいろいろ目が離せないわけである。

 

ちなみにギャレゴジがgyao!でみられるとか

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『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』雑感


女子フィギュア最大のスキャンダル!『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』特報

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概要

アメリカ人女性初、史上二人目のトリプルアクセル成功者であるトーニャ・ハーディング。彼女が94年リレハンメルオリンピック出場権を得るために元夫等にライバル襲撃事件を命じたと疑惑の目を集めた、「ナンシー・ケリガン襲撃事件」は、衝撃的な事件としてマスコミの恰好のネタとなり、報道もエスカレートした。
しかし、全

 世界を揺るがしたスキャンダル・オン・アイスの真相を知っている人はどこまでいるのだろうか?本作ではトーニャの生い立ちから、大きな影響を与えた母親をはじめとする特殊な人間関係、疑惑の事件や、オリンピック競技中に審査員に涙で訴えるという靴紐問題までを追求。昨年のトロント国際映画祭で大きな話題を集め、アカデミー賞3部門ノミネート、ゴールデングローブ賞を受賞(助演女優賞)するなど賞レースを賑わせている。
いかにして事件が起きたのか、その真相に迫るにつれ若干23歳で世界のヒール役に転じた元スケーターの新たな顔が見えてくる。表情のプリンセスから犯罪者へ、人生の頂点からどん底へと突き落とされた彼女の想像を絶する人生は、悲しくもどこか愉快で、ワイルドでクレイジー。そんなトーニャの半生が、今スクリーンで明らかになる!

 

 

雑感

 伝記作品でありながらクレイジーなキャラクター(というか馬鹿か?)がクレイジーを呼び込むような展開。笑えるくらい全てがクレイジー。伝記にしてはあまりに常軌を逸していたために持たれるであろう「流石にこれは脚色が多いんじゃないか?」という疑念。それに対しあのラストの実写映像という渾身のアンサーが用意されていた構造は見事だったと思う。トーニャの生涯を広く包括していたし全体的に面白かったが、ある意味あれが一番の衝撃だったのではなかろうか。

 

 そんな反面、作中のスケールから「アメリカの、或いはフィギュアスケート界の中でのトーニャ・ハーディング」というスケールに目を移すと、貧しくも圧倒的な才能を持つ者(世界で2人目のトリプルアクセル成功!アメリカ人初、ヨーロッパ人もまだ)が結局貧しさ(広いニュアンスで)から脱することが出来なかった話で笑えない。そういった切実さも確かに内包する映画だった。

 

私自身はフィギュアに関しても事件当時の知識もなく、そういう意味においてはフラットな視線で本作を鑑賞したといえる。もしかしたら、このあたりの知識や記憶があったなら「いや、こんなの出鱈目だ。」と感じたかもしれない。そうでないとは言い切れない。

 本作の主題でもある事件に関しての私自身の見解を述べるならば、裁判所から言い渡された処分のみが唯一確かに真実だと言えるものだしとか言いようがない。

 

 

 

るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 追憶編 (1999年) -感想・雑感

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十字傷

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るろうに剣心 追憶編 [Blu-ray]

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 不朽の名作という言葉がある。普通エンターテイメントというのはその時代のためにあるものだ。未来を想定することなんかしないしまず不可能だろう。だから普通は時代を経るごとにその価値は色あせていく。端的に言えば古くなっていく。どんなに優れた作家であろうと「1000年後も読み継がれる物語を書こう!」とか意気込んだりしないはず。けれどそんななかでも偶然か必然か時代を超えて普遍的な価値を保ち続ける作品が存在する。

  『るろうに剣心 追憶編』(以下『追憶編』)は自分のなかでまさにその不朽の名作と言えるアニメだ。『追憶編』と出合ったのは少なくとも6年以上は前だと思う、とあるケーブルテレビ局でとある大晦日に放送された"るろうに剣心OVA特番"的な番組を視聴したときだった。元々『るろうに剣心』のTVアニメ版の影響でコミックスを揃えるくらいにはファンだったが、その前日譚をあるゆるアプローチから昇華させた『追憶編』初見の衝撃は今でも忘れられない。そんな思い出深い『追憶編』について少し振り返ってみようと思う。

 

概要 

<追憶編あらすじ>

心が人斬りとなり、そして不殺の誓いを立てるまでの運命の物語。

幼い心太は野盗の襲撃のさなか、飛天御剣流の継承者・比古清十郎と出会った。彼は心太に「剣心」の名と、「人の夜のために振るう剣術」である飛天御剣流を授ける。

しかし数年後、剣心は京都で血みどろの刀を振るう「人斬り抜刀斎」となっていた。

ある雨の夜の死闘で、彼は一人の美しい女性と出会う。名前は巴。

彼女との出会いが、剣心を大きく変えていくことになる…。

 

 

徹底したリアリティが支えた、「時代を懸命に生きる者」たちのリアリティ

 『追憶編』における継続性・統一性ひとつとしては、リアリティの追求が挙げられる。剣心の師・比古清十郎曰く「荒んだ時代」としての生々しく残酷な一面から、その一方で美しく移ろぐ四季に至るまで、そこに一切の誇張無く幕末期の京都および大津という舞台が徹底的なリアリティでオーガナイズされている。

  だが真に特筆すべきはリアルな舞台・表現が徹底されているという点ではない。ただリアルなだけではなく、このリアリティを礎にすることでもう一つのリアリティを実現していることだ。それは、比古曰く「時代を懸命に生きた」人々のドラマである。本作品では、純粋な少年でありながら「人斬り抜刀斎」に成り果て殺人を繰り返す主人公剣心、新時代のため人斬りとして剣心を登用した桂小五郎、見聞役の飯塚、あるいは闇乃武の長といったキャラクターまでもがいわゆる記号的配置を逸脱し、確かにその時代に生きる「業深き者」として成立している。誰もが「荒んだ時代を懸命に生きていたに過ぎない」。これは茫漠としたフィクショナルな「幕末」では成立し得なかっただろう。

  この二つのリアリティが完璧といって良いほどに合致しているのが『追憶編』を不朽の名作たらしめる要因のひとつだろう。また、こうしたリアリティという説得力が、洗練された台詞ともあいまって、表情や所作あるいは風景などによる巧みな心情描写をより効果的にしていく。それらはまさに「宿業」と呼べるものでなかろうか。

 

強烈な"白梅香"がもたらすプルースト効果

 ここまで『追憶編』は徹底的にリアリティでオーガナイズされていると言ってきたが、それ自体に関しておそらく異論の余地はないだろう。しかし、こと白梅香に関しては例外である。たとえば、剣心と飯塚が市中で会話するシーンでは大通りの向こうにいた巴をさして2人が感じた白梅香の主を「あの女だな」と断定したり、剣心と巴が出合うシーンでは雨中にも関わらず剣心が白梅香を感じた演出がある。白梅香とはラフレシアの如き強烈な臭いなのかよ!という話である(当然違う)。では、徹底的だったはずのリアルを逸脱した白梅香の意味とは一体なんであるか。

 剣心が白梅香を知っていたのは、まだ剣心が幼名・心太だった頃に出会った娼婦たちが白梅香を漂わせていたからだ。「生きて心太…私の分まで」と言い、襲ってきた野盗から彼を守るために彼女たちは目の前で殺されていった。本来は彼自身が守りたかったはずの、白梅香の香りがいまだ残っていたであろう彼女たちの亡骸を自らの手で埋葬していった。つまり剣心にとって白梅香とは、そうした心太時代の強烈な記憶そのものなのだと思う。プルースト効果である。

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 そんな白梅香を漂わせる雪代巴に出合い、彼女に惹かれていったのは剣心にとってまさに運命的だった。巴と出合い、成り行きとはいえ夫婦として暮らすことによって剣心にとっての白梅香の意味は変質してゆく。あるいは上書きされていったとも言えるだろうか。満身創痍の剣心と闇乃武の長とが対峙し、そこへ巴が割って入るクライマックスシーンで、剣心が白梅香によって思い起こすのは、彼がはじめて見出すことのできた「幸せ」のなかで聞いてきた巴の言葉たちだった(巴役の岩男潤子さんのなんと名演なことか!)のだから。この瞬間までは剣心にとって白梅香は幸せを意味する香りだったのだ。なお、このシーンでは明確に梅の香りを示す演出はないが、視覚・聴覚を奪われた剣心が残された嗅覚で白梅香を感じ取ったのは必定だ。

 しかし同時に巴は死んでしまう。またしても、守りたかった女性が、逆に剣心を救うことで死んでいった。この瞬間を境に、これまで変遷を辿ってきた彼にとっての白梅香のもつ意味は、心太時代のあの記憶に回帰し、あるいは吻合してゆく。その一瞬、まるで転送されたのか如く心太が掘ったあの墓場へ呼び戻される(そこにあったのは十字架に架かった巴の手巾)。そしてラストシーンはご存知の通り、一面に十字架が並ぶなかでの「お前は今から剣心と名乗れ!」である。

 

 

ひとりごと

 白梅香のほか、もう一つフィクショナルな要素といえるのが「呪いの籠った刀傷」だ。『追憶編』最大の意義は剣心の十字傷のストーリーに必然性をもたらしたことだ。さらに言えば、十字傷の由来という逆説的なものではなく、一筋目の傷は清里の意志によって、それに引き寄せられたかのように巴の意志によって二筋目の傷が頬に刻まれたという『追憶編』の結果として、十字傷を必然的に生み出した。しかも、第四幕『十字傷』での巴の一連の行動に関する心理の解釈は、視聴者の裁量に委ねられている(委ねすぎるのも×)点が本当に素晴らしい。「分からぬな、おなごというもの…。」に尽きる。

 少し考察くさくなってしまったが、白梅香について自分なりに解説してみた。また何か書き足すかもしれない

 

 

『熱帯魚は雪に焦がれる』萩埜まこと -既刊②感想・雑感

ネタバレ注意

 

 

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 概要

 都会の高校から、海辺の田舎町にある七浜高校へ転校してきた小夏は、周囲にうまくなじめずにいた。そんなとき、七浜高校水族館部のひとり部員である小雪と出会う。小雪は周囲から高嶺の花と思われており、そのイメージ通り振る舞うことに、少し寂しさと息苦しさを感じていた。異なる孤独を抱えて、お互い惹かれたふたりは――?

 

 

  ゆったりとした時間が、流れている

 小夏はこの海沿いの街に転校して以来いまだ周囲に馴染めていない。と、あらすじで紹介されている。転校初日に会話したのが隣の席の楓だけだったという描写はあったものの、特に小夏自身に抱えるコミュニケーションの問題点もこれといって見当たらないし、具体的に「馴染めていない」ことを裏付ける描写も見当たらないから最初は違和感を持った。

  だが、「時間の経過」に注目することで小夏が周囲に馴染めていないであろうことを裏付けできる。というのも、小夏にとって二度目の、水族館部員として初めての一般公開が4話にして訪れる。一般公開は月に一度の催しだと説明されているから、小夏がこの街に来て一ヶ月の月日が経ったことになる。つまり小夏には転校一ヶ月で(認識できる範囲では)、小雪と楓以外に友達はおろか知り合いと呼べる同級生もほぼいないのである。ここでひとついえるのは、彼女たちが出会って一ヶ月という月日がいつの間にか経過していて、空白の日常が間違いなくあったということだろう。

  また6話の青島編では彼女たちがケータイで連絡先の交換をするわけだが、つまりそれまで(すくなくとも出会って一ヶ月以上は)連絡先の交換すらしていなかったことになる。こうした、「時間の経過」という事実に目を向けると、一見彼女たちには目まぐるしい変化や展開が訪れているようで、実際は我々読者が覗くことのできない空白の日常を過ごしていることに気づく。彼女たちのリレーションシップ(関係性)の構築はゆっくりと時間をかけて行われている。これは楓の小夏に対してのアプローチの素早さに比較してより明確に現れている部分ともいえる。

 これは彼女たち(小雪と小夏)の精神性に合致する。互いに互いの存在を大切に扱いたいし、自らを救ってくれた相手に寄り添える者でありたいと願いながらも(願うからこそ)干渉することに慎重になる。そうした感情は必ずしも相互に同質ではないかもしれないが、そうした少女たちなりの繊細で複雑な感情の構造・それらの変化というテーマに真正面から取り組んでいる漫画だと思う。

 

 

なぜ「山椒魚」なのか、あるいは「蛙」であるか

 既刊2巻という情報量のなかで、彼女たちの精神性や感情といったものを仔細に読み取りること(これはそもそも不可能なことかもしれないが)や、今後彼女たちのリレーションシップがどう変質していくか・彼女たちが何を見出していくのか、という予測をしたり現状を解釈することはたいへん難しい。

 そんななかヒントになり得るのが、しきりに登場する1話において引用された井伏鱒二の『山椒魚』における山椒魚と蛙のリレーションシップだと思う。引用には、引き出したテクストは僅かだとしても『山椒魚』そのものを作中で共有し、作品を拡張する機能があると思う。この引用についてのプルースト現象的解釈の是非はともかく、その自由くらいは読者にあるはずだ。

 なぜ小夏は小雪を「山椒魚」と位置づけたのか。そして自身を「蛙」でありたいと願うのか。客観的には小雪を「山椒魚」にたとえるのはかなり奇妙でないかと思った。なぜなら「山椒魚」は岩屋に篭もり閉じ込められた愚か者であり、或いは「蛙」を巻き添えに幽閉した滑稽な存在であまりにネガティブなイメージが支配的だからだ。当然、水生生物であるサンショウウオが水族館部を取り上げているこの漫画に馴染むとか高校生の現代文に登場して違和感のないといった要因もあったかもしれない。

 だがここでは一度「蛙」だけに目を向けるとどうなるか、という発想をしてみる。「蛙」は「山椒魚」と激しい口論を交わし最終的に「山椒魚」を許す唯一の存在だった。さらに言えば誰からも理解されなかった「山椒魚」に寄り添う唯一の存在だった。小雪は高校では高嶺の花として扱われる存在。憧れや理想を抱かれることは理解から最も遠い(ただし彼女の父や弟はそれを気にかけてはいる)。小雪は孤独だったのである。

 だから小夏のいう「蛙になれたらいいのにな」とは、部員一人の水族館部という孤独な岩屋のなかで、或いは高校という集団のなかでやはり孤独な小雪に寄り添う者でありたいということなんだと思う。更に言えば、唯一の、とか小雪が「山椒魚」の如き悪者だったとしても、とかがつく強烈で切実な感情なのかもしれない。

 ちなみに『山椒魚』にはドラマチックさやドラスティックな変化はなかったと思う。しかし一方で淡々とした展開のなかで確かな彩りがあった思う。だからというわけではないが、やはり海沿いのこの街で淡々と日常を過ごし、長い時間をかけて彼女たちにしか認識できないような、僅かでそれでいて切実な変化がこの先に訪れるのではなかろうか。

 

 

ひとりごと

漫画はやはりストーリーだけではなくイラストを買うという要素を多分に含んだエンターテインメントだと思う。そういう意味でも『熱帯魚は雪に焦がれる』は強みをもっている。泣きぼくろの小雪アホ毛の小夏なんて実にキャッチーだ。何を隠そう自分も表紙に一目惚れでなんとなく購入した。ただ女の子たちが非常に可愛く描かれている一方、動物や海洋生物がたくさん出てくる割に描き慣れてないのかなーという印象も。

いずれにしても色んな意味でこれからの漫画だと思う。この先も見守っていきたい。

 

 

 

『リズと青い鳥』ネタバレなし 感想・雑感

 


『リズと青い鳥』本予告 60秒ver.

 

liz-bluebird.com

 

注意点

・原則<ネタバレなし>とするが、一切の情報を排除して感想を述べるのは不可能である。

それを考慮して

①予告映像から読み取れる情報(メインキャラクター、キャラデザ、キャストetc)はネタバレ要素に含めない

②具体的なシーン・シークエンスに言及しないが、作品から感じた継続的な印象を述べることはする

③「良い」とも「悪い」とも評しない

を設定する。

 

また<ネタバレなし>とした理由を簡単に説明すると、「具体的なシークエンス・ファクターにまで言及し、それらを繋いて文書に纏めあげる自信がなかったし、その作業に必要な情報をキャッチできている自信もなかった」からになる。つまりネタバレなしで書いたほうがマシな文になるだろうと思ったからである。

 だからネタバレありきで語り、作品を深くまで掘り下げたり紐解こうとする人にリスペクトを表明したい。

 

 

リズと青い鳥』は、本を読むようにみる映画

 「『リズと青い鳥』とはどんな映画か?」という問に答えるのは難しい。けっして作品のなかで統一性や特徴が存在していないわけではない。むしろ感じ取れる特徴・情報は多い。多すぎるゆえこの映画を形容する言葉がなかなか見つからないのだ。

 ただ、これから『リズと青い鳥』をみる友人に何か伝えるとしたら「これは能動的な映画だ」だと思う。つまり何かというと映画鑑賞とは一般的に受動的なエンターテイメントといえる(たとえばアクションシーンであったり、ドラスティックな変化であったり、ドラマチックに何かを達成すること、明確なクライマックス。スクリーンに映るそれらやシアターの音響が生む迫力に圧倒される。みせられている。だからただみているだけで「感動した!」「おもしろかった!」という満足感を得る。そういうことがよく起こる。)が、『リズと青い鳥』は「読み取ること」つまりは能動的な姿勢を要する。

 それは別にたいして難しい作業ではないし苦痛を伴うものでもない。だがこの映画に対して全く受動的な姿勢ならそれらを見逃す可能性はある。そうしたらきっと「終わったけど何が起こった?物足りない」と感じてしまうだろう。

 「読み取る」という作業はつまり、シークエンスあるいは会話、キャラクターの動作、演出といった要素たちに繋がり・結びつき(伏線の回収ともいえる)を感じ取ること。そうして得られた一種の快感はまさに読書のそれと同質のものだった。

 だから『リズと青い鳥』とは「読書するような映画」だと思う。

 

 

リズと青い鳥』と『響け!ユーフォニアム2』(TVアニメ・劇場版)における傘木希美と鎧塚みぞれは別の存在か

 『リズと青い鳥』は予告映像でわかるとおり明確に傘木希美と鎧塚みぞれとそのリレーションシップ(関係性)のストーリーだ。だから『響け!ユーフォニアム』とはスケールが異なってくる。

 傘木希美と鎧塚みぞれにフォーカスして、あるいはそれ以外を意図的に視野から追い払うことで2人の少女が鮮明に浮かび上がる。そうして見えてくる彼女たちは『響け!ユーフォニアム2』で描かれたキャラクター(たとえば主人公横前久美子の先輩という立場)としての範囲を大きく超えている。傘木希美と鎧塚みぞれというキャラクターという意味では同じだが、捉えている範囲・精度が全く違う。だから『リズと青い鳥』と『響け!ユーフォニアム2』における傘木希美と鎧塚みぞれはそれぞれ異なる存在であると思う。

 『リズと青い鳥』の精度とは本人さえ自覚できるかわからない複雑で切実な感情が鮮明に・リアルに表れている部分にある。2人のリアルな感情とリレーションシップ(その変化)を追求する姿勢はキャラデザ等の違いにも表れていると思う。余談だがアニメ版と比較してリアリティを追求している点において『るろうに剣心』のTVアニメ版とOVAの『追憶編』の関係に近いと思った。

 

 

 

ひとりごと

 見終えるとドっと疲れが湧いてくるような気がした。それは上に主張した読み取る作業を要したからかもしれないし、静かに叫ぶような希美とみぞれの感情に優しく殴られたような衝撃をうけたせいかもしれない。これから平日が続くっていうのにみるんじゃなかったと思った。

 それでも興味深い本ならまた読み直したくなるものである